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中性原子方式量子コンピュータによる量子計算(後編)

“動作原理と部素材”から紐解く量子コンピュータ シリーズ第7回

前回は、量子計算の1つである「量子シミュレーション」を対象として、中性原子方式量子コンピュータによる計算イメージを説明した。今回は、量子計算の本質に迫るべく、最重要アルゴリズムの1つである「QPE((Quantum Phase Estimation)以下、量子位相推定)」を題材として、量子計算が確率的であることを平易に解説する。

なお今回の内容は、中性原子方式に限らない量子コンピュータ方式共通のものが大半であるが、中性原子方式との関係性については、当ブログの最後に筆者の見解をお伝えしたい。

【1. 量子位相推定の位置づけ】

前回も言及したオーストリア インスブルック大学等による事例(図1)では、「量子位相推定(図上はQPE)」の量子シミュレーションへの適用が想定されているが、量子位相推定は、これに限らず、様々な量子計算において適用される。

量子位相推定が適用されるアプリケーションないしアルゴリズムの例1

  • 分子のエネルギーを求める量子化学計算
  • 線形方程式を解くためのHarrow-Hassidim-Lloyd(HHL)アルゴリズム
  • ショアのアルゴリズム
    (非常に大きな数の素因数分解が可能なため、暗号解読に使用可能)

QPEにより、従来の計算手法に対して、指数関数的な処理速度の向上が可能とされているが、適用にあたっては極めて高い処理精度が要求される。そのため、本格的な実用に向けては、エラー訂正機能を実装した次世代ハードウェアの登場を待つ必要がある。

フェルミオン量子計算のハードウェア、回路構成、量子シミュレーション応用を示す概念図。

図1:フェルミ粒子シミュレーションを実行するプロセッサの全体イメージ
(オーストリア インスブルック大学、米国 ハーバード大学等による論文) (1)

【2. 量子位相推定が量子化学計算において有効な理由】

量子化学計算に適用する場合、図2上部のような量子回路を使って、量子系のエネルギーの計算に必要な「位相」を求める。なぜ位相が分かるとエネルギーを求めることができるのだろうか。まずは、この点について説明したい。

量子位相推定アルゴリズムにより、波動関数の位相変化からエネルギーを求める原理を示す図。

図2:量子系の波動関数と位相の関係((2), (3)より一部引用・追記)

図2中央の等式は、「量子系の波動関数と位相の関係」を示している。
(注:出所(2)は位相を「Θ」、出所(3)は「Φ」で示しているが、実質的には同じ内容である。)

時間の経過に伴う波動関数の変化(量子系のエネルギーの変化)は、これに対応した位相シフト(位相の変化のこと)で表すことができる。

すなわち、「量子位相推定」というアルゴリズムを使って「位相」を推定できれば、これを利用して、量子系のエネルギーを求めることができる、ということだ。

【3. 量子位相推定の量子回路】

量子系のエネルギーと位相との関係を紐解いたところで、改めて、量子位相推定アルゴリズムを実行するための量子回路について見てみよう。

量子位相推定の手順を示し、重ね合わせ生成から時間発展、逆量子フーリエ変換、測定までを説明する図。

図3:量子位相推定における量子ビットやサブルーチン処理の概要(2),1,2

図3 ①~④にあるように、量子位相推定を実行するための量子回路は大きく4つのブロックから構成される。一口に「量子位相推定」といっても、位相を推定するために、複数の要素を組み合わせていることが、図から読み取れよう。
(ただし現状では、量子位相推定は、全てが確定した完成形のアルゴリズムではなく、性能向上に向けて様々なアプローチ・改良が検討されている点について補足しておく。)

【4. 時間発展シミュレーションから逆量子フーリエ変換への流れ】

量子位相推定では、「逆量子フーリエ変換」が、正しい解(=位相)を高い確率で導くためのメカニズムを有しており、「量子計算が確率的であること」の代表例である。

量子位相推定で、時間発展による位相情報を逆量子フーリエ変換で離散化し測定する流れを示す図。

図4:時間発展シミュレーションおよび逆量子フーリエ変換のイメージ(2),(3),2,3

上図「時間発展シミュレーション」のアウトプット(位相)は本質的に連続量であるが、これを「逆量子フーリエ変換(緑の枠内)」において離散的な値に変換している。その上で、波の干渉を使って、「真の位相に対応する測定確率」を最大化している。

このようなメカニズムにより、複数の解候補(位相の候補)から、最も有力な解を高い精度で推定できるようにしている。まさに、量子位相推定は、極めて確率的な計算と言えよう。

なお、図4のケースでは、「3つの補助量子ビット(制御量子ビット)」を想定している点に留意されたい。補助量子ビットが3つの場合、位相を表す離散的な値は、「補助量子ビット数に対応した3桁 / 8種類(2の3乗)」となる。つまり補助量子ビットの数が多いほど、桁数を増やして、より多くの離散的な値を想定することができ、この中から確率的に高い値を抽出することになる。

【5. 量子位相推定と量子コンピュータ方式との関係性】

量子位相推定は、非常に汎用性の高いアルゴリズムであり、特定の量子コンピュータ方式に限定されるものではない。

しかし下記理由により、忠実度の高い中性原子方式は、有力なハードウェア方式の1つになり得ると考える。

  1. (量子化学計算に求められる計算精度の観点)
    量子化学計算は、系の規模によっては膨大な計算量が必要になることから、これまでは近似解にとどまるか、あるいは実質的に計算不可能なケースが少なくなかった。このように、「厳密解を求めること」が量子コンピュータ利用のモチベーションとなる状況では、極めて高い計算精度が期待されている。つまり、量子位相推定の実行有無に依らず、量子化学計算の実行においては、高い忠実度が不可欠となる。
  2. (量子位相推定実行の観点)
    量子位相推定により、処理の効率化(計算時間の大幅な短縮)が期待されるが、その実行は極めて高い処理精度を前提としている。

以上、4回にわたって中性原子方式量子コンピュータのハードウェア特性や、量子計算の実行イメージなどを解説してきた。当ブログが、多少なりとも中性原子方式に関する理解の一助となれば幸いである。

次回より、主要各国で開発が加速している「光量子コンピュータ」について、ハードウェア開発のアプローチや動作原理などを解説する。

執筆者

  • 扇 孝一郎/Ogi Koichiro
    合同会社デロイト トーマツ
    コンサルティング

    外資系大手IT企業等を経て現職。量子技術の調査・活用戦略の策定からスタートアップへの投資検討支援まで、広範なコンサルティングサービスを提供。国内量子産業の拡大や経済安全保障の観点から、量子サプライチェーンの構築にも取り組んでいる。

  • 太田 伸彦/Ota Nobuhiko
    合同会社デロイト トーマツ
    コンサルティング

    国内大手素材メーカーでの研究、製造技術開発職を経て現職。化学系の製造業を中心に調査・戦略策定、オペレーション改革・DXプロジェクトに従事。量子技術領域では、ハードウェアサプライチェーン調査やユースケース調査に従事。

監修

  • 杉﨑 研司/Sugisaki Kenji
    合同会社デロイト トーマツ
    量子サイエンティスト

    2011年に、量子コンピュータの化学応用・量子化学計算量子アルゴリズムの研究を開始。慶應義塾大学量子コンピューティングセンター特任准教授等を経て現職。主な著書「量子コンピュータによる量子化学計算入門(KS化学専門書)」(講談社)。
  • 多知 裕平/Tachi Yuhei
    合同会社デロイト トーマツ
    量子サイエンティスト

    計算化学やデータサイエンスを活用した創薬・材料開発を専門とし、過去にケンブリッジ大学での研究留学や分子科学研究所の研究員として従事。現在は、誤り訂正量子コンピュータを活用した創薬研究や実証・開発プロジェクトをリード。

※上記の社名・役職・内容等は、掲載日時点のものとなります。