会社は変わった。しかし、市場はまだ過去の姿でその会社を見ている。無形資産への投資が企業価値を左右する時代に、経営に問われるのは発信量ではない。顧客、人材、投資家が企業を「何者」と捉えるかを設計し、その認識を行動と企業価値へ変える力である。本記事では、その経営課題を「市場認識の再設計」として考える。
2026年8月3日、政府は企業に対し、知的財産やブランドといった無形資産への投資状況を開示するよう求める要綱1を公表した。金融庁と東京証券取引所によるコーポレートガバナンス・コードの改訂を受けた対応である。要綱に法的拘束力はないが、投資家などから無形資産への取り組みについて説明を求められる場面は、今後確実に増えると予想される。
一方、自社のブランド、技術、データ、人材、顧客基盤が、どのような因果で競争優位や将来キャッシュフローにつながるのかを説明できる企業は多くない。合同会社デロイト トーマツ ブランドストラテジーチームは、ブランドを表現やコミュニケーションの問題ではなく、経営戦略を顧客、人材、資本の選択へ変換する「市場認識の再設計」として捉えている。
今回の要綱が企業経営に与える影響と、企業がいま取り組むべき課題について、合同会社デロイト トーマツ ブランドストラテジー パートナーの白土学と、同ディレクターの額田康利に聞いた。
——今回の知財・ブランド開示要綱を、企業はどのように捉えればよいのでしょうか。
白土 今回の開示要綱の背景には、日本の市場全体を底上げし、国際競争力を向上させるという政府の狙いがあります。古くから日本企業が大事にしてきた「品質」や「現場力」といった資産は、この数十年でグローバルに追いつかれ、追い抜かれつつあります。そこで、これまで十分に可視化されてこなかった日本企業の無形資産を顕在化させ、価値創造の促進とグローバルでのプレゼンス向上を目指そうというものです。
額田 無形資産には、ブランド、技術、データ、人材、顧客基盤などが含まれます。有形資産だけでは競争優位を維持しにくくなり、無形資産が企業価値創造に占める比重が高まる中、従来の財務情報だけでは企業の将来性を十分に説明できません。コーポレートガバナンス・コードの改訂2は、取締役会が無形資産をどう認識し、投資し、監督するのかを問うものです。一方の開示要綱は、その投資が競争優位、収益力、企業価値にどうつながるかを市場に示すことを求めています。言い換えれば、経営には「投資する責任」と「価値創造の因果を説明する責任」の両方が課されます。
——要綱は義務ではない、ということですね。
白土 義務ではありません。ただし投資家との対話において事実上の説明基準となり、積極的に対応する企業とそうでない企業とで、評価に差が出る可能性があります。
白土 実務的に大きいのは、無形資産への投資が周辺的な活動ではなく、取締役会が扱う経営課題として明確になったことです。経営者にとっては「投資してよい」というお墨付きであると同時に、「何に、なぜ、どれだけ投資し、どの成果を期待するのか」を説明する規律が求められます。
合同会社デロイト トーマツ ブランドストラテジー パートナー 白土学
——なぜ日本企業は、無形資産を語ることが苦手なのでしょうか。
白土 日本企業は、無形資産という宝の山を抱えています。しかし、保有していることと、企業価値を生む資産として経営できていることは別です。問題は、ブランド、知財、人材、データ、顧客基盤が部門ごとに管理され、経営戦略、資本配分、市場への説明が一つの価値創造ストーリーとして接続されていないことです。個々の資産は優れていても、組み合わせる経営設計がなければ、価値は顕在化しません。
額田 リーダーシップのあり方も関係しています。日本企業では、地道に積み上げてきた強みを守り、過去の実績を着実に説明する統制型のガバナンスが重視されてきました。一方で、将来の目指す姿を起点に、現在の戦略や投資の意味を語ることには、なお改善の余地があります。
将来像からバックキャストして方針や戦略を立て、その実現に向けた投資の意味を一貫して伝えることが重要です。ただし、社内のコンセンサスを重視する企業文化では、未来に向けた意志を明確に示すまでに時間を要することがあります。
白土 その差が表れている分野もあります。日本企業が強力なIPやコンテンツを持つ一方、アジア各国では、IPやコンテンツを戦略的に活用し、ブランド価値へ転換するエコシステムを構築する企業が、グローバルでも急速にプレゼンスを高めています。
いいものを持っていることと、それが市場から認められることは別の話です。今回の開示要綱をきっかけに、自社の無形資産を市場からどのように評価してもらいたいのかを自ら定義し、どのように社会に向けて語っていくのかを考えるべきタイミングにきていると思います。
——知財・無形資産を市場に伝え切れないとどのような問題があるのでしょうか。
額田 私たちがいう「市場認識」とは、顧客、人材、投資家、パートナーなどが、その企業を「何者」と捉え、どのような価値を期待し、どのような行動を取るかを決める認知の枠組みです。市場は企業内部の変化をリアルタイムで理解するわけではなく、過去の商品、業界分類、成功体験、報道、評価モデルを通じて企業を解釈します。したがって、企業の実態が変わっても認識が変わらなければ、戦略に合う顧客、人材、資本、パートナーは集まりません。変革は社内で完了しても、企業価値には転換されないのです。このギャップは、三つのズレとして現れます。
一つめは、「競争カテゴリーのズレ」です。企業が新たな競争領域へ移っているのに、旧来の業界や製品カテゴリーで比較される状態です。例えば、AIやコンサルティングといった領域で成長しようとしているのに、市場からは従来型のシステム受託開発会社と見られてしまう、といったケースです。
二つめは、「提供価値のズレ」で、企業が提供しようとしている価値と市場が期待している価値がずれている状態です。実際には顧客の業務変革や収益改善まで支えているのに、製品機能だけで理解されているような例が該当します。
三つめは、「成長ストーリーのズレ」です。企業の投資や事業変革が、将来の収益や企業価値にどのようにつながるのか。これが明確に伝わらないと、投資が集まらないだけでなく、顧客にとっては「この会社に将来も任せてよいのか」、人材にとっては「この会社で成長できるのか」という不安につながります。
——発信量を増やせば、認識は変わるものでしょうか。
額田 そこが難しいところで、発信と認識の変容は別物です。市場は新しい情報を白紙で受け取るのではなく、「あの会社は何の会社か」という、すでに持っている枠に当てはめて解釈します。新規事業や技術、人材施策をいくら発信しても、既存イメージの周辺情報として処理されてしまえば、企業全体の認識は変わりません。
白土 市場認識ギャップは、あらゆる業種の企業が直面する課題です。例えばテクノロジー企業がクラウドやAIへとかじを切ったのに旧来のシステム開発企業と見られていたり、食品会社が半導体分野のBtoB企業として成長しているのに人材市場ではBtoC企業として認知され続けていたりする例もあります。イノベーティブな事業で成長しているのに、市場認識が伴わないために人材市場で高度人材がなかなか集まらない、という悩みを持つ会社も少なくありません。
合同会社デロイト トーマツ ブランドストラテジー ディレクター 額田康利
——企業は何から始めればよいのでしょうか。
額田 全社共通のメッセージやタグラインを一つつくれば解決するわけではありません。市場認識は、ブランド階層、対象市場、地域の三軸で分解して捉えます。ブランド階層は企業、事業、製品・サービス、対象市場は顧客、人材、資本、パートナーなどです。ブランド階層を縦軸、対象市場を横軸に置き、地域を重ねた一つひとつの組み合わせを「セル」と呼びます。これにより、「誰に、どのブランドを、どの市場・地域で、何者として認識してもらうのか」を経営が扱える単位に変えます。
セルに分解する目的は、すべての認識ギャップを均等に埋めることではありません。経営戦略の実現を妨げている認識はどこか、その認識を変えたときに顧客、人材、資本の行動がどう変わるか、企業価値への波及はどれほど大きいかを比較し、投資優先順位を決めることです。着手すべきは、ギャップが最大のセルではなく、戦略上のボトルネックを解消し、価値創造への波及が最大になるセルです。
額田 その設計原則がCOREとEDGEです。COREは、企業が「何者であるか」を一貫させる不変条件です。何を価値とし、何によって価値を生み出し、何を選び、何を選ばないのかを定めます。パーパスや将来ビジョンを掲げるだけでは足りません。投資、M&A、採用、撤退といった重要な経営判断を実際に変える原則であることが必要です。
EDGEは、そのCOREを、特定市場で選ばれる価値へ変換する適応領域です。顧客には事業成果、人材には成長機会、投資家には成長再現性、パートナーには共創価値というように、「誰に選ばれるのか」「何を理由に選ばれるのか」「どの証拠で信じてもらうのか」を具体化します。COREからEDGEへは分断しません。原則を保ちながら、市場に近づくほど適応度を高めます。COREが弱ければ市場迎合によって事業・地域ごとにブランドが分散し、EDGEが弱ければCOREは明確でも市場の選択・行動は変わりません。企業価値につながるブランド経営は、COREの一貫性とEDGEの市場適応力の掛け算で決まります。
企業として変えない核を共有しながら、市場・事業・地域ごとに「選ばれる理由」を最適化する。COREからEDGEへは分断せず、原則を保ちながら、市場に近づくほど適応度を高める。
白土 注意したいのは、全部のセルに花丸をつけることが目的ではない、ということです。現在の経営戦略と自社を取り巻く環境を踏まえ、意志を持ってお金や人をどこに投資するのかを決めるために、現在地を可視化するのが目的です。
——実際に自社の「現在地」を知るには、具体的にどう進めるのですか。
額田 最初のステップは、その会社の方々に「御社は何を資産として捉えていて、何が価値になると思っているか」をお聞きすることです。また、その会社が実施した調査を棚卸しし、足りない部分は新たに調査するなどして埋めていきます。並行して、経営者、経営陣に対してインタビューを実施します。
白土 経営者に伺うのは「あなたはどこに行きたいのか」という一点です。日々、資本市場への対応や従業員と向き合うことに時間と関心を取られている中で、会社という大きな船をどこに向かわせるのか、改めて外部の私たちが引き出し、向かう先を定めていきます。
白土 こうして、経営が目指す姿、市場の現在認識、認識を形成する証拠と体験、事業KPIや企業価値への波及を一枚の因果として可視化したものを、私たちは「ブランドバリューマップ」と呼んでいます。重要なのは地図をつくること自体ではありません。経営、事業、広報、人事、IRが同じ地図を見ながら、どこに投資し、何を変え、どの指標で成果を検証するかを議論できることです。
——現在地が分かったあと、目指す姿はどう定めるのでしょうか。
額田 誰にも未来を当てることはできませんが、起こりうる幅は決められると思っています。重要なのは、考え得る未来の幅の中で、どこに行きたいのかを決めること。そこから逆算してブランドの役割を定義し、それを企業価値へ接続していくことが求められます。
白土 私たちブランドストラテジーチームの出自はファイナンシャルアドバイザリーですから、A社とB社がM&Aで一つになるような場面に数多く関わってきました。財務や労務、法務といった機能面の重要な意思決定が優先され、ブランドが劣後されるケースが多々あります。そして統合の日が近づくと、あわてて「この活動は誰がやるのか」という話になるのです。
白土 そうではなく、ディールの初期段階からブランド活動の検討を始めておくことで、市場の期待や従業員の納得感を形成し、統合後のスタートを支える経営基盤を整えることができます。ブランドは、財務、営業、チャネルマネジメント、顧客マネジメントなど、あらゆる機能を動かす企業のOSであり、プラットフォームです。OSがしっかりしていなければ、それぞれの機能も十分に力を発揮できません。
——デロイト トーマツ ファイナンシャルアドバイザリーがブランドを扱う強みは何でしょうか。
額田 そもそも、ファイナンシャルアドバイザリーでブランドを扱うサービスを持っているプロフェッショナルファームは、極めて少ないと思います。私たちはファイナンシャルアドバイザリーとして、常に企業価値と対峙してきました。従来の財務領域に加え、ブランドのような非財務領域においてもお客様のお役に立つために、専門性を生かしていきたいと考えています。
白土 総合コンサルティングファームとして、経営戦略から実装までをワンストップで担えることも大きな強みです。市場認識ギャップの可視化からブランドや事業そのものの価値の算出、さらにシステムの実装やオペレーションの設計まで専門チームによるプロフェッショナルサービスをご提供できます。
額田 実際、市場認識の再設計が我々ブランドストラテジー単体で完結することはあまりありません。入り口は私たちブランドストラテジーが担い、実行の場面ではグループのさまざまな専門家と組んでいく形になります。
今回の開示要綱を、開示項目が一つ増えた話として処理するのか。それとも、長年積み上げてきた無形資産を、顧客、人材、投資家の選択へ変える経営改革の契機とするのか。この違いは、開示資料の出来栄えではなく、数年後の成長力、資本効率、人材獲得力の差として表れる。
最後に、自社の現在地を測る手がかりを紹介する。デロイト トーマツは、市場認識マネジメントの成熟度を5つの段階で捉えている。大切なのは、いきなり最終段階を目指すことではない。自社がいまどの段階にいるのかを正しく把握し、次の一段へ進むために何が足りないのかを見極めることが重要である。
Stage 1 発信型
発信はしているが、「何の会社なのか」が市場に伝わっていない
Stage 2 メッセージ整備型
パーパスやブランドメッセージは整っているが、事業戦略や企業価値との接続が弱い
Stage 3 市場別翻訳型
顧客、人材、投資家など、市場ごとに認識の設計を始めている
Stage 4 無形資産接続型
ブランド、知財、人材といった無形資産が、市場認識や事業KPIと結びついている
Stage 5 社会アジェンダ統合型
社会課題、経営戦略、無形資産、企業価値が一体で設計されている
経営者が最初に問うべきことは、「もっと何を発信するか」ではない。「自社は誰から、何者として見られているか」「その認識は、経営戦略の実現を後押ししているか」「変えるべき認識と、変えてはならないCOREは何か」である。事業は変わったのに、市場の見方が変わっていない。ブランドや人的資本への投資を、企業価値の言葉で説明できていない。部門ごとの施策は増えたのに、企業としての意味が一つになっていない。こうした兆候があるなら、課題は発信ではなく、市場認識を経営する仕組みにある。
市場認識は、経営会議の外で自然に変わるものではない。経営戦略、無形資産、ブランド、市場の行動、企業価値の因果を一つの地図にし、どこから変えるかを決める必要がある。自社だけでは見えにくいのは、企業内部で共有されている常識と、市場が実際に見ている姿との間にある差である。その差を客観的に捉え、経営の選択へ変えるところから、次の成長は始まる。自社の経営戦略は、市場からどのように認識されているだろうか。
取材対応
合同会社 デロイト トーマツ
ブランド ストラテジー
パートナー 白土 学
ディレクター 額田 康利