生成AIの登場がビジネスを一変させたように、次なる非連続な変革が迫っている。それが「量子技術」だ。2040年には現在のAI市場を凌駕する経済価値を生むとの予測もあるこの技術に、GoogleやMicrosoftなどのテックジャイアントが巨額投資を行い、実用化のタイムラインは大きく前倒しされつつある。量子コンピューティングがAIの進化をどう加速させ、破壊的イノベーションをもたらすのか。そして、この「不可逆な流れ」に対し、経営層が今打つべき手は何か。前後編の2回にわたって解説する。
今、ビジネス界は生成AIの熱狂の只中にある。しかし、われわれが見据えるべきは、その先にある「AI×量子」の融合がもたらすパラダイムシフトだ。量子技術がもたらす経済価値は、2040年頃に約120兆円に達するとの試算がある。これは、現在のAIが社会に与えるインパクトに匹敵、あるいはそれを凌駕する規模だ。
多くの人は量子コンピュータを「現在のスーパーコンピュータが速くなったもの」と捉えているかもしれないが、その認識は正確ではない。量子技術の本質は、万能なスピードアップではなく、「特定の計算領域における圧倒的な高速処理」にある。そして、その特化された能力こそが、企業経営にとって計り知れない「恩恵」と、看過できない「脅威」という二面性をもたらす。
第一の側面は、人類規模の社会課題解決への貢献だ。
例えば、高効率な人工光合成のプロセスを量子シミュレーションで解明できれば、気候変動問題の根本解決に道が開かれる可能性がある。また、高分子に対するシミュレーション精度が高まることで、これまで治らなかった病気に対する新薬発見のサイクルは劇的に短縮されるかもしれない。
さらに、AIの課題である「電力問題」に対しても、量子技術による効率的な機械学習がブレークスルーをもたらし、より持続可能なAI社会を実現する鍵となるだろう。
一方で、「脅威」の側面も直視しなければならない。
量子コンピュータの演算能力は、現在インターネット社会の安全を支えている暗号技術(RSA暗号など)を無力化するポテンシャルを持つ。これが現実となれば、全社システムの改ざんによる業務停止や、盗聴・保存された通信データが遡及的に解読され、機密情報が漏洩するリスクが顕在化する。
量子技術は、もはや研究開発部門だけのテーマではない。世界を見渡すと、量子技術への投資は過熱の一途を辿っている。単なる科学技術振興の枠を超え、経済安全保障上の重要課題として、「自国で強力な計算力を保有することが国益に直結する」という認識が浸透しているためだ。
特に米国と中国の官民投資規模は突出しており、熾烈な覇権争いを繰り広げている。日本政府の投資額も欧州諸国と比較すれば決して小さくはないものの、米中の規模と比較すると差があるのが現状だ。
また、スタートアップ市場に目を向ければ、その勢いはさらに顕著である。米国では、PsiQuantumのような時価総額10億ドルを超えるユニコーン企業が台頭しており、IonQのようにIPO(株式公開)を果たした企業も複数存在する(2025年10月時点)。数カ月単位で調達額が大幅に増加していくスピード感は、インターネット黎明期や21世紀初頭から続く第3次AIブームの初期を彷彿とさせるものがあり、資本市場が量子技術の実用化を織り込み始めていることが分かる。
量子技術をめぐる競争において、主役となるのは国家やスタートアップだけではない。GoogleやMicrosoft、AWS(Amazon)、IBM、NVIDIAといったビッグテック企業がいずれも、量子コンピュータのハードウェアやチップ、アルゴリズム等の自社開発に巨額のリソースを投じている。
彼らがなぜ、ハードウェア開発にまで踏み込むのか。それは、量子技術こそが「次に来る競争力の源泉」であると確信しているからに他ならない。
日本企業が「実用化はまだ先」と見て足踏みしている間に、世界のトップランナーたちが着々と「計算力の覇権」を握ろうとしている事実を、われわれは直視する必要があるだろう。
生成AIの登場は、ビジネスの変曲点となった。大規模言語モデル(LLM)や、自律的にタスクを遂行するAI(エージェンティックAI)の実装が進むにつれ、AIによる業務代替の予測は上方修正され続けている。事実、2017年時点では2030年にAIが代替する業務割合は15%と予測されていたが、2023年のLLMの台頭を経て、その数値は25%へと跳ね上がった。
しかし、この急激な進化の裏で、AIは深刻な「成長の限界」に直面しつつある。それは「計算資源」と「電力」の壁だ。
現在のAIモデルは、精度を高めようとすればするほど、指数関数的に膨大な学習データと計算資源を必要とする。その結果、データセンターの電力消費量は爆発的に増大しており、「電力供給の物理的限界が、AIの進化を止める」というシナリオさえ現実味を帯びている。
また、全ての産業領域にビッグデータが存在するわけではない。「データ不足」により、高精度なAIモデルが構築できない領域も依然として多く残されている。
ここで登場するのが、量子コンピューティングだ。量子技術は、単に計算を速くするだけでなく、AIが抱えるこれらの構造的な課題を解決するポテンシャルを秘めている。具体的には、以下の2つの側面でブレークスルーが期待される。
量子コンピューティングがAIの進化を支え、社会の構造そのものを変えつつある今、先を読む企業のみが新たな競争優位を築ける。後編では、量子技術の応用領域をさらに深掘りし、企業が直面するリスク・機会と、企業が「今」動き出すための経営戦略について、より実務的な視点から提言する。
補足)
文中、量子力学の原理を利用したハードウェアを指す場合は「量子コンピュータ」、ソフトウェアや理論など、量子コンピュータを使った計算手法や技術全般を含む場合は「量子コンピューティング」、更に量子暗号通信や量子センシングなども含む場合は総称して「量子技術」と記載しています。
寺部 雅能/Terabe Masayoshi
デロイト トーマツ グループ 量子技術統括
自動車系メーカー、総合商社の量子プロジェクトリーダーを経て現職。量子分野において数々の世界初実証や日本で最多件数となる海外スタートアップ投資支援を行い、広いグローバル人脈を保有。国際会議の基調講演やTV等メディア発信も行い量子業界の振興にも貢献。著書「量子コンピュータが変える未来」。ほか、経済産業省・NEDO 量子・古典ハイブリッド技術のサイバ-・フィジカル開発事業の技術推進委員長など複数の委員、文科省・JSTの量子人材育成プログラムQ-Quest講師、海外量子スタートアップ顧問も務める。過去に、カナダ大使館 来日量子ミッション・スペシャルアドバイザー、ベンチャーキャピタル顧問、東北大学客員准教授も務める。