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量子実用化への戦略的ロードマップ—10年後の勝者は「今」決まる

「AI×量子」が社会と企業に与えるインパクト【後編】

前編では、量子コンピューティングが、AIが直面する「計算資源」と「電力」の壁を打ち破り、創薬や新素材開発、金融など幅広い領域で破壊的イノベーションを起こす可能性について論じた。後編となる本稿では、視点を「技術」から「経営」へと移す。実用化が2030〜40年と予測される中、なぜ今、企業は動き出さなければならないのか。「様子見」が招く致命的なリスクを避け、競争優位を築くために経営層が直ちに着手すべき具体的戦略を解説する。

量子技術が支配するアプリケーション領域と無限の可能性

AIと量子コンピューティングの融合は、最も破壊的なイノベーションが期待される分野であり、生成AIの学習高速化や精度向上、さらには再生可能エネルギーの出力予測など、データ駆動型の意思決定を次のレベルへと引き上げる。

もちろん、量子コンピューティングの応用領域はAIを含むデータサイエンスにとどまらない。すでに具体的な実証成果が出始めているアプリケーション領域として、以下のようなものが挙げられる。

  • 組み合わせ最適化
    物流ルート、工場の生産計画、要員配置など、無数の選択肢から「最適解」を導き出す領域。製造業においては生産効率がわずか5%改善するだけで、財務インパクトは計り知れない。現場のオペレーションをリアルタイムで最適化し続けることは、企業の利益率を直接的に押し上げる。
  • 計算機シミュレーション
    自然界の分子や原子の挙動をデジタル空間で再現する領域。創薬における分子結合や、次世代バッテリーの材料開発、さらには金融市場のリスク計算(モンテカルロ法による大量のシナリオ試行)に至るまで、従来は「実験と失敗」を繰り返していたプロセスを、超高速かつ高精度の計算へと置き換える。
  • 暗号解読
    量子コンピュータは、従来の暗号技術を短時間で解読できる可能性があるため、セキュリティ上の脅威となり得る。これに対し、量子暗号技術(量子通信や量子鍵配送など)の開発が進められており、これが新たな防御手段として期待されている。
量子技術はAIのほか、最適化・シミュレーション・暗号解読に強みがある

重要なのは、これらの領域で現在想定されているユースケースは、あくまで「入り口」に過ぎないということだ。

インターネットが登場した当初、eコマースやクラウドといった巨大産業の誕生を誰も正確に予見できなかったように、量子技術が汎用化・民主化された先には、われわれの想像を超えた「量子ネイティブ」なアプリケーションやビジネスモデルが誕生するだろう。 

企業にとって「様子見」が最大のリスクとなる

量子技術は、社会構造と企業の競争ルールを根底から書き換える破壊的な技術である。そのインパクトは、AIをはじめとするデジタル技術がビジネスにもたらした変化と同等、あるいはそれ以上と言っても過言ではない。経営者が肝に銘じるべきなのは、2030〜40年に訪れる量子実用化社会の勝者は、その時になって決まるのではなく、「今、動き始めている企業」の中から決まっていくという事実だ。

多くの日本企業は、量子技術の難解さや実用化時期の不透明さを理由に「様子見」の状態にあるように見受けられる。しかし、この「実用化されてから考える」というスタンスは、環境変化の激しいこの時代に通用しないどころか、企業の存続を脅かす最大のリスク要因となり得る。

その理由は大きく3つある。

第一に、「ハードウェアリソースの枯渇リスク」である。量子コンピュータは量産が極めて難しく、実用化が近づく2030年頃には、需要の爆発的増加に対し供給が追いつかない可能性が高い。世界的に計算リソース(マシンタイム)の利用枠が争奪戦となる中で、現在からエコシステムに入り込み、ベンダーとのパートナーシップを築いておかなければ、いざ実用化された時に土俵に上がることすらできなくなる。

第二に、「人材育成のリードタイム」だ。量子技術を使いこなすには、既存のコンピュータとは根本的に異なる思考法が必要であり、自社の産業ドメイン知識と量子アルゴリズムへの理解を兼ね備えた高度な人材が不可欠である。こうした人材は市場にほぼ存在せず、育成には3〜5年程度を要する。実用化が目前に迫ってから育成を始めても、組織体制の構築は間に合わない。

そして第三に、われわれが経験した「デジタル革命の教訓」である。日本企業はクラウドやAIに代表されるデジタル技術とそれらを活用したトランスフォーメーションにおいて、海外勢に大きく後れを取るという苦い経験をした。技術のパラダイムシフトが起きるときは、後れを挽回する好機であり、まさに今、量子コンピューティングがそのパラダイムシフトを起こそうとしている。同じ轍を踏まず、今度こそ競争優位を築くためには、直ちに行動を開始する必要がある。

「戦略と実践の往復運動」が量子時代の勝者を決める

では、経営層は具体的に何をすべきか。

推奨される第一歩は、大規模な投資や全社的なプロジェクトの立ち上げではない。社内で1〜2名のエンジニアと1名のビジネス人材を選定し、「小規模チーム」を組成することである。そして、まずはクラウド経由で利用可能な量子コンピュータを用いて、量子アルゴリズムを実際に体験させる。難解な論文を読み込むよりも、量子コンピュータを動かし、技術への「手触り感」を得ることが重要だ。何ができて、何ができないのか。自社のどの業務と相性が良いのか。この肌感覚こそが、机上の空論ではない、実効性のある戦略を構築する基盤となる。

ここで陥ってはならないのが、単発のPoC(概念実証)を行って終わりにする「戦略なき実証」である。重要なのは、自社の事業課題に基づいた「仮説としての戦略」を立て、PoCを通じてその仮説を検証し、得られた知見を基に戦略を磨き上げるというプロセスだ。

この「戦略と実践の往復運動」を繰り返すことによってのみ、確信を持って不確実性の高い新技術を事業に取り込み、来るべき量子実用化社会における優位性を確立できる。まずは数名規模での市場調査と戦略構築から始め、次に10〜50名規模での実証を通じたケイパビリティ(組織的能力)の蓄積へと進む段階的なロードマップを描くことをお勧めする。

デロイト トーマツは、グローバルで700名、日本で50名の量子技術チームを擁している。大学や企業で量子化学、最適化、シミュレーション分野の研究を行ってきた専門家が加入し、慶應大学量子コンピューティングセンター(KQCC)への参画やQuEra社との共同開発の取り組みなど、研究活動に積極的に自らが投資をしている。この国内外の専門チームが連携することで、技術研究、エコシステム構築、産業支援を幅広く支援しており、量子技術実装の実績も豊富にある。

技術の進化を待つのではなく、自らがその進化の波をつくり出す—。そうした挑戦を皆様とご一緒していきたい。

補足)
文中、量子力学の原理を利用したハードウェアを指す場合は「量子コンピュータ」、ソフトウェアや理論など、量子コンピュータを使った計算手法や技術全般を含む場合は「量子コンピューティング」、更に量子暗号通信や量子センシングなども含む場合は総称して「量子技術」と記載しています。
 


執筆者

寺部 雅能/Terabe Masayoshi
デロイト トーマツ グループ 量子技術統括
自動車系メーカー、総合商社の量子プロジェクトリーダーを経て現職。量子分野において数々の世界初実証や日本で最多件数となる海外スタートアップ投資支援を行い、広いグローバル人脈を保有。国際会議の基調講演やTV等メディア発信も行い量子業界の振興にも貢献。著書「量子コンピュータが変える未来」。ほか、経済産業省・NEDO 量子・古典ハイブリッド技術のサイバ-・フィジカル開発事業の技術推進委員長など複数の委員、文科省・JSTの量子人材育成プログラムQ-Quest講師、海外量子スタートアップ顧問も務める。過去に、カナダ大使館 来日量子ミッション・スペシャルアドバイザー、ベンチャーキャピタル顧問、東北大学客員准教授も務める。