2025年盛夏、都内で開催されたデロイト トーマツ主催「持続的にAI変革に取り組める環境構築」セミナーの会場は熱気に包まれていた。生成AIの登場から数年経ち、経営層はAIへの期待を一段と高めている。実際、多くの企業がAI導入に踏み出しビジネス変革への期待を寄せる一方で、業務効率化ツールの活用にとどまり、競争力強化や価値創造といった本質的な事業変革まで進んでいないのが現状だ。いわゆるPoC(概念実証)を乱立させたまま頓挫し、肝心のROI(投資対効果)を測れずに終わるケースも散見される。AI導入の“大義”は十分に共有されている。しかし、その熱狂の陰で「どうすればAIを経営効果に直結できるのか」という問いに明確な答えを持たない企業が少なくない。
本セミナーは、この課題に向き合う場となった。先進企業の事例や専門家の知見を前に、会場の経営層は熱心に耳を傾ける。そこで浮き彫りになったのは、単発のPoCで終わらせずAIを全社変革につなげるために必要な条件だった。
セミナー冒頭では、先進事例として登壇した三井化学の三瓶雅夫氏が、同社の取り組むAI活用の実態について紹介した。
「生成AIを活用して製品の新規用途を探索し、すでに197件の発見につながっており、マネタイズが促進されています。AIは業務効率だけでなく、新しい価値創出にも資するという実感があります」と三瓶氏は述べる。
三井化学株式会社 常務執行役員CDO 三瓶雅夫氏
また、生成AIを活用した「特許チャット」により、社内での特許調査時間を80%削減する効果を確認できたという。
これらは単なる実験ではなく、同社のトップライン(売上)拡大を目指す戦略的イニシアチブだ。新規用途探索の取り組みは、既に2030年に向けた長期経営計画の主目的である製品ポートフォリオの変革・拡充や市場シェア拡大に直結する成果を生み始めている。
AI活用の裏では基幹システムの刷新も進む。20年以上前に導入されたERPシステムを「“増築”や“改築”ではなく、“新築”の発想で見直した」と三瓶氏は語る。さらに、社内データを連携、集約、可視化するデータ基盤の構築も進めている。
人材育成の取り組みにも力を入れている。三瓶氏は「化学の知見を持つ人材を、リスキルによってデジタル人材へと育てる。技術と現場知見を融合できる人材こそが、競争力の源泉になる」と強調する。
三井化学のケースは、基幹(システム)と基盤(データ・人材)の両輪を整備しながら生成AIを攻めの武器とした好例であり、PoC止まりから脱却するための現実解を示している。
続くパネルディスカッションでは、「データ統合」と「人材育成」という2つのテーマが繰り返し議論に上った。パネルには、先の三瓶氏に加えデータブリックス・ジャパン笹俊文氏やSAPジャパン堀川嘉朗氏が名を連ね、デロイト トーマツ根岸弘光の進行のもと、企業システムとAI基盤の融合について意見を交わした。
右から、三井化学株式会社 常務執行役員CDO 三瓶雅夫氏、データブリックス・ジャパン株式会社 代表取締役社長 笹俊文氏、SAPジャパン株式会社 常務執行役員最高事業責任者 堀川嘉朗氏、デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 Engineering AI & Data Offering Leader 根岸弘光
議論の焦点は「データをどう統合し価値に変えるか」だ。十分な質と量のデータなしには、AIから業務インパクトのあるアウトプットを得ることはできない。しかし現状、日本企業で管理され活用できているのは構造化データが中心で、社内に散在するテキストや音声・画像など非構造化データまで含めた統合には至っていない企業が多い。パネルでは「基幹系(たとえばSAPのERP)とデータ・インテリジェンス・プラットフォーム(Databricksなど)の連携による全社データ統合」が変革の土台になると説明があった。
実際、SAPとDatabricks間の新たな連携ソリューションにより、ERPのトランザクションデータと現場のビッグデータをシームレスに統合する道が開けつつある。ERPを皮切りに、企業内のデータ統合の第一歩であり、今後はその他のデータも統合されることが期待される。登壇者からは「データこそがAIのボトルネック。データ統合基盤への経営判断を先送りしては競争に負ける」という厳しい声も上がった。
もう一つの重要条件がAI人材の育成と組織改革である。優秀なAI人材の採用競争が激化する中、自社の人材をどう育て活用するかは喫緊の経営課題となっている。パネルでは「社内のAIリテラシー向上と専門人材の登用」が議論された。
日本企業ではデジタル知見を持つ人材が経営の意思決定に関与していないケースが多く、海外企業ではデジタルに精通した人材が経営層にいる例との差が指摘されている。
このギャップを埋めるには、経営層自らがAIの可能性と限界を正しく理解し、全社を巻き込んだ人材戦略を推進する必要がある。パネル登壇者からは、自社内に「AI伝道師」となる人材を育成する施策や、現場とデジタル部門の人材交流による「ビジネスと技術の橋渡し役」の育成事例が紹介された。結論として、データ統合された基盤と、自律的にAIを使いこなせる人材組織という両輪がそろってこそ、持続的なAI変革が実現するとの認識でパネルは一致した。
セミナーではさらに、テクノロジー提供側からの視点としてNVIDIA(R)の大崎真孝氏が講演を行い、AIがもたらす未来展望について語った。
エヌビディア合同会社 日本代表兼米国本社副社長 大崎真孝氏
大崎氏は、AIによって産業構造が垣根を越えて再編されつつある現状に触れ、「かつて縦割りだった業界がオープンなAIプラットフォーム上で各産業のプロダクトやサービスを共創する段階に入っている」と指摘した。
またNVIDIA(R)が取り組む最新技術動向(AIを支える半導体アーキテクチャやクラウドサービス)を紹介しつつ、企業がこれからAIインフラへの投資を加速させる重要性を強調。特に日本企業に向けては「世界的なAI競争の波に乗り遅れないために、今こそ実行とスピードが肝要」と強く呼びかけた。
未来志向のメッセージの一方で、大崎氏はAI活用におけるエコシステム構築の必要性にも言及した。単独企業で全てのAIリソースを抱えるのは困難であり、ベンダー・スタートアップ・大学との連携を通じたオープンイノベーションが、日本発のAIソリューション創出につながると展望を示した。
続いてデロイト トーマツの下川憲一は、企業がAI導入を成功させるための統合的なアプローチを提示した。デロイト トーマツの提言はシンプルだ。それは「ビジネス戦略とテクノロジー基盤を両輪で整備せよ」というメッセージに集約される。
デロイト トーマツ コンサルティング合同会社 AI & Data Unit Leader 下川憲一
具体的には、戦略(Strategy)・人材(People)・プロセス(Process)・データ(Data)・テクノロジー(Technology)の5つの観点から自社の準備状況を点検し、抜け漏れなく手を打つことが重要だと説いた。
言い換えれば、部分最適な施策をいくら積み上げても変革は実現しない。
経営層は自社のAI導入ステージを5つの観点から評価し、弱点を補強する包括戦略を描く必要がある。「持続的なAI変革には、経営の舵取り役が全方位に目配りした統合戦略を策定することが不可欠」というのが下川の主張であり、セミナー全体を通じて浮かび上がったキーメッセージでもあった。
本セミナーの議論を踏まえ、AIを全社変革に結び付けるために経営トップが下すべき5つの重要な意思決定を整理する。
5つのポイントはいずれも経営トップの決断なしには成し得ない事項ばかりだ。裏を返せば、これらを自ら納得して実行に移す経営層こそが、AIの本格導入によって真の競争優位を手にするだろう。セミナーの終盤、デロイト トーマツの下川は「日本企業がAIで勝機を得るには、経営層自らが旗を振り、変革の青写真を示すことだ」と述べ、聴衆の経営層に行動を促した。その言葉通り、AI時代ではトップの意思と構想力がこれまで以上に企業の将来を左右する。
セミナーを終えて会場を後にする経営者たちの姿には、表層的な熱狂とは異なる、次の行動を見据えた静かな決意がうかがえた。生成AIを経営の実利につなげるためには、短期的な導入効果だけでなく、基盤・人材・組織の整備といった本質的な取り組みが問われる。AIを価値創造の起点とできるかどうか。それは、まさに経営の意思と構想力にかかっている。