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FeMocoはなぜ量子計算のベンチマークなのか ―鉄硫黄クラスターから見る量子化学計算

シリーズ:量子技術の現在地 - 量子化学編 eFTQCで化学計算はどこまで変わるか - 第1回

量子コンピュータは、early Fault-Tolerant Quantum Computing(eFTQC)時代に量子化学計算をどこまで前進させるのか。本シリーズでは、最新動向と将来展望を、実際の研究や研究企画に携わる方を主な対象として想定し解説する。特に、頻繁に話題に挙がるベンチマークをどう読むべきか、具体的な実装はどうなっていくのかなど、基礎的な背景に加え、実装上の論点まで踏み込み、技術の現在地と今後の可能性を考察する。

はじめに

本記事から5回に渡り、量子化学計算を題材として、近未来のearly Fault-Tolerant Quantum Computing(eFTQC)でどのような計算が実現しうるのかを考える。複数の量子ベンダが、2028年から2029年にかけて実用化を見据えた規模のFTQCをリリースするというロードマップを公開している今、これまで以上に解像度を上げて計算対象を理解することが必要だろう。本連載では、量子化学計算において頻繁に話題に挙がる分子系を、化学・計算科学の視点から解説する。前半三回では、FeMoco、Cytochrome P450、Ru触媒を取り上げ、実際の化学課題がどのような電子構造モデルや活性空間として定式化されているかを整理する。後半二回では、これらの計算をより少ない計算資源で実行するためのハミルトニアンの軽量化や、量子誤り訂正を念頭に置いた実装技術へと議論を広げる。化学、アルゴリズム、誤り訂正、ハードウェアをつなぎながら、eFTQCによる量子化学計算の現在地と今後の可能性を俯瞰することを目指す。

1.なぜFeMocoが重要なのか(社会的意義と科学的意義)

量子コンピュータによる量子化学計算の研究では、FeMoco(FeMo cofactor)が代表的な計算対象としてたびたび登場する。FeMocoは窒素固定を担う酵素ニトロゲナーゼの活性中心に存在する金属クラスターであり、7個のFe、1個のMo、9個のS、中心に位置するCなどから構成される。生物はニトロゲナーゼを用いて、大気中の安定な窒素分子N₂を常温常圧下でアンモニアへと還元する。工業的なアンモニア合成(ハーバー=ボッシュ法)では高温高圧が必要な点との対比からも長く研究されてきた。なお、2020年時点で全世界のエネルギー使用量の約1.2%がアンモニア合成に費やされており[1]、エネルギー問題の解決に対しても非常に重要な対象であることが分かる。

FeMocoが量子コンピュータ研究で注目される理由は、この化学的・社会的な重要性に加えて、その電子構造計算が難しいことにある。2010年代後半以降、FeMocoを対象とした量子計算のリソース推定1が相次いで行われ、量子化学における代表的な大規模ベンチマークとして定着してきた。ただし、FeMocoの電子状態のエネルギーを高精度に求めることと、窒素固定反応全体を解明することは同義ではない点には注意が必要である。実際の反応には基質結合、プロトン化、構造変化、周囲のタンパク質環境なども関係する。量子計算が対象とする電子構造問題は、その複雑な反応を理解するための一要素である。また、産業応用にはその反応を理解した上で機能を模倣し、工業的に利用可能な触媒の設計を進める必要がある点を忘れてはいけない。

1: 対象となる計算を実行するために必要な量子ビット数や演算回数、計算時間を推定することを指して、一般に”リソース推定”と呼ばれる。

2.難しさの正体は何か

FeMocoの計算が難しい理由は、単純に原子数が多いからではない。FeやMoなどの遷移金属では、比較的局在したd電子が電子状態に強く関与する。FeMocoには複数の開殻(open-shell)2な金属中心が存在し、それらの局所スピンが複雑に結合する。さらに、異なる電子配置が近いエネルギーを持つ近接縮退が生じ、一つの電子配置だけでは波動関数を十分に表現できない強相関性が重要になる。どの軌道に電子が入るか、どの金属中心に電荷が分布するか、各スピンがどのように結合するかという多数の可能性を同時に考える必要がある。このような多電子問題では、対象とする軌道数が少し増えるだけでも、取り得る電子配置の数は急激に増える。FeMocoが量子計算のベンチマークとして用いられるのは、この「軌道数の増加に対して状態空間が急速に拡大する」という性質がある。

2: 分子軌道が一重占有された状態。複数存在すると電子配置数が増えるだけでなく、結合の組合せ数も多数存在するため、急激に計算の複雑性が増す。 

3.FeMocoの計算につながる分子系

FeMocoの計算規模を理解するには、より小さな鉄硫黄クラスターと比較すると分かりやすい。2026年に報告されたeFTQC向けの量子化学計算のリソース推定[2]では、[2Fe–2S]、[4Fe–4S]、FeMocoなど複数の鉄硫黄クラスターのハミルトニアンがベンチマークとして用いられている。

これらを計算の規模の順に整理したものが下表である。

Fe-S/FeMoco模型は活性空間拡大で状態数が急増し、計算難度が高まる。

この表から最も分かりやすいのは、

20軌道 → 36軌道 → 54軌道 → 76軌道

と活性空間が増えるにつれて、多電子状態空間が

108 → 1016 → 1030 → 1035

へ急速に広がる点である。

軌道数だけを見ると、20から76への増加は4倍にも満たない。一方、状態空間の大きさは20桁以上変化する。この爆発的な増加が、多電子量子化学計算の難しさを直感的に示している。2Fe–2S、4Fe–4S、FeMocoは化学的に同一の縮約系列ではないものの、Fe–Sを中心とする強相関電子系について、より大きな活性空間へ計算規模を広げたベンチマーク群として並べて見ることができる。

ニトロゲナーゼ活性中心を、FeMocoから4Fe-4S、2Fe-2Sへ簡略化して解析する。

4.同じ構造・軌道数でも電子状態は変わる

モデル間の違いは分子サイズだけではない。[2Fe–2S]²⁻と[2Fe–2S]³⁻では、活性空間はいずれも20空間軌道である一方、電子数は30と31で一つだけ異なる。形式的な酸化状態で見ると、[2Fe–2S]²⁻はFe(III)/Fe(III)、[2Fe–2S]³⁻はFe(II)/Fe(III)の原子価混成3状態として表現される。同じ基本骨格、同じ軌道数でも、電子数が異なれば電子配置やスピン状態も大きく異なる。つまり、量子化学ベンチマークを見る際には、

分子の大きさ+活性軌道数+活性電子数+対象とする電子状態

をセットで確認する必要がある。「何量子ビットの問題か」という一つの数字だけでは、その計算問題の性質や難易度を十分に表すことはできない。さらに、状態空間が巨大であること自体も、古典計算が困難であることを直接意味するわけではない。実際、長らく量子計算の代表的な難問とされてきたFeMocoについても、近年、電子状態の構造を利用した高度な古典計算法により化学精度(chemical accuracy)4での基底状態エネルギー推定が報告された[3]。従って、量子計算には単に大きな問題を扱うだけでなく、古典計算では圧縮や近似が効きにくい強相関系や、より大きな活性空間、複数反応経路を含む実用的な化学問題へ計算可能領域を広げることが期待される。

3: 同じ分子・クラスター内に異なる酸化状態の金属中心が共存する状態。実際には電子が複数の金属中心に非局在化している場合もあるため、明確に酸化数が表記通りになっているとは限らない。

4: 化学反応の速度定数などを定量的に議論する際の精度の目安。一般に約1 kcal/mol(約4 kJ/mol、約0.043 eV)程度の誤差を指す。 

5.活性空間とは何か

ここまで20軌道、36軌道、76軌道と記してきたが、実際の分子には非常に多くの分子軌道が含まれている。量子化学計算では、対象とする電子状態に重要な電子と軌道を意図的に選択して活性空間を構成する。つまり活性空間とは、単なる「計算サイズの削減」ではなく、どの電子自由度を多電子計算の中に残すかを決める操作と言える。

FeMocoではこの点が特に重要である。初期のリソース推定では54電子54軌道のモデルが広く用いられた。一方、Liら[4]は、このモデルでは電子構造が十分に表現されていないことを指摘した。その後、Fe 3d、S 3p、Mo 4d、中心Cの2s・2pなどを含む113電子76軌道で構築された活性空間に、多数の一重占有軌道を伴う開殻構造が導入され、現在の主要なベンチマーク対象とされている。この点は、将来の量子計算リソースを評価する際も重要である。同じ「分子の計算」であっても、どの活性空間のハミルトニアンを出発点とするかによって、必要な論理量子ビット数や量子回路の規模は変わる。

6.early-FTQCではどこまでが射程に入るか

では、このような問題は近未来のeFTQCでどこまで扱えるのだろうか。2026年のリソース推定[2]では、鉄硫黄クラスター、P450活性中心、Ru系触媒などを含む、おおむね20~50軌道規模の化学問題について、single-ancilla QPEを用いた計算資源が評価されている。その結果、条件(表面符号と超伝導方式を想定)によっては約105物理量子ビット規模のeFTQCを用いて、数日から数週間程度の計算時間となる領域が示されている。一方、より大きな活性空間を持つFeMocoは、その射程の先に位置する。今回の鉄硫黄系モデルを一覧すると、

20軌道級:2Fe–2S
36軌道級:4Fe–4S
50軌道級:FeMoco Sm
70軌道級:FeMoco Lg

という見通しを持つことができる。
この距離を縮める手段は、ハードウェアを高性能化することだけではない。どの活性空間を選ぶか、ハミルトニアンをどのように表現するか、どの量子アルゴリズムや誤り訂正方式を採用するかによっても必要リソースは変化する。次回はCytochrome P450を取り上げる。同じように、どの化学状態を対象とし、何電子・何軌道の活性空間でモデル化しているのかを一覧しながら、量子計算ベンチマークと実際の化学問題との対応関係を見ていく。

参考文献:

[1] C. Smith, A. K. Hill, and L. Torrente-Murciano, Energy Environ. Sci. 13 (2): 331-344 (2020).
[2] S. Kanasugi, R. Toshio, K. Maruyama, and H. Oshima, arXiv:2603.22778 (2026).
[3] H. Zhai, C. Li, X. Zhang, Z. Li, S. Lee, and G. K.-L. Chan, arXiv:2601.04621 (2026).
[4] Z. Li, J. Li, N. S. Dattani, C. J. Umrigar, and G. K.-L. Chan, J. Chem. Phys. 150, 024302 (2019).

 

図の出典:

Structures based on PDB entries 1AWD ([2Fe-2S]), 1IRO([4Fe-4S]), and 3U7Q(FeMoco).
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%A1%AB%E9%BB%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA

プロフェッショナル

手塚 宙之/Tezuka Hiroyuki
合同会社デロイト トーマツ
量子サイエンティスト リード

大手事業会社で量子技術の研究を立上げ5年に渡りリード。量子アルゴリズム開発から実証まで幅広く取り組む。金融や化学、量子通信の実証など多岐にわたる共同研究に参画。技術と事業の両面に通じ、産学の橋渡し役として先端技術の導入支援と社会実装を推進。アカデミアの客員研究員、国家プロジェクトの採択審査委員、国際学会の技術審査員も務める。

杉﨑 研司/Sugisaki Kenji
合同会社デロイト トーマツ
量子サイエンティスト

2011年に、量子コンピュータの化学応用・量子化学計算量子アルゴリズムの研究を開始。慶應義塾大学量子コンピューティングセンター特任准教授等を経て現職。主な著書「量子コンピュータによる量子化学計算入門(KS化学専門書)」(講談社)。

多知 裕平/Tachi Yuhei
合同会社デロイト トーマツ
量子サイエンティスト

計算化学やデータサイエンスを活用した創薬・材料開発を専門とし、過去にケンブリッジ大学での研究留学や分子科学研究所の研究員として従事。現在は、誤り訂正量子コンピュータを活用した創薬研究や実証・開発プロジェクトをリード。


※上記の社名・役職・内容等は、掲載日時点のものとなります。