「リスクマネジメントの本質とは何か?」その解を示唆する連載企画。第2回は、日立製作所が取り組む「企業価値最大化」のためのERMについて、同社CFO兼CRMO(Chief Risk Management Officer)の加藤知巳氏に、デロイト トーマツの長谷川孝明、河野久美子が聞いた。
長谷川 まずは加藤さんの管掌範囲と、CRMOとしてのミッションについて教えてください。
加藤 CFO兼CRMOとして、日立グループ全体の財務、IR、投融資およびリスクマネジメントを統括しています。私のミッションは、激動する経営環境の中で、脅威と機会のマネジメントにより企業価値を最大化することです。2024年に導入したERM(Enterprise Risk Management)を本格的に立ち上げ、その高度化に着手しています。
長谷川 近年、企業を取り巻くリスクはAIやサイバーセキュリティ、地政学、サプライチェーン、サステナビリティ、気候変動、コンプライアンスなど多岐にわたっています。経営環境の変化に伴い、従来のガバナンスやコンプライアンス領域に加えて、事業戦略の実現に向けたリスクマネジメントの変革やAI、サイバー領域に関するご相談が非常に増えており、多くの企業が関心を高めていると私たちも感じております。こうした激動の中で、日立製作所のリスクマネジメントにはどのような変化が生じていますか。
加藤 従来は各事業部門が主体となってリスクマネジメントに取り組み、コーポレート部門やリージョンはそれをサポートするという役割分担でした。しかし、2020年代に入り、パンデミックやリスク対応に伴うサプライチェーンの見直しなど、過去の経験則が通用しない新たなリスクが急速に顕在化する時代になりました。だからこそ、グループ全体のリスクを「網羅性」「即時性」「組織としての対応力」の観点で捉え直すことが、企業の存続と競争優位性を左右する重要な要素となったのです。そこで私たちは、コーポレート部門が主導してグループ全体のリスクマネジメントを統括するERM体制へと刷新を図りました。
河野 日立のERMでは、“攻めのリスクマネジメント”にも注力しているとう伺っています。
加藤 従来のリスクマネジメントは損失のミニマム化に主眼を置いていました。しかし、リスクを恐れて慎重になり過ぎるあまり、本来掴むべき成長機会を逃してしまうことは企業にとって大きな損失です。私たちは「損失のミニマム化」と「成長機会逸失のミニマム化」、この両者のバランスが取れたリスクマネジメントを目指しています。
河野 日立製作所のような、CFOとCRMOを兼務する体制の大手企業は多くない印象です。財務的なバックグラウンドを持つ加藤さんだからこそ、財務的損失と機会逸失のリスクに両睨みを利かせた判断ができるのではないでしょうか。
加藤 CFOを兼務することで、「どの程度の損失までなら経営として許容できるか」というリスクアペタイト(許容度)を把握できます。許容範囲内であれば、根拠を持って「攻めの投資」をCEOに進言できる。これは兼務ならではの強みです。
長谷川 ERMの高度化に着手されたというのは、具体的にどのような取り組みでしょうか。
加藤 先ほど申し上げた「網羅性」「即時性」「組織としての対応力」という3つの軸を具現化するため、リスク管理プロセスの設計や組織文化の醸成、テクノロジーの活用を進めてきています。まず「網羅性」と「即時性」を支える仕組みとして、グループ全体のリスク選定プロセスを構築しました。機会を含めた約40のリスク項目をグループ共通の規則として定め、全社のリスクを漏れなくカバーしています。これらリスク項目についてアセスメントを行い、重要性の高い10個前後を「トップリスク」として選定します。さらにその中から、特に対策の議論が必要なものを「重点取組み分野」と位置付け、CEOも出席する月次の経営会議において、同分野の全体状況を報告すると共に個別にアジェンダを設定してリスク対策の議論を行っています。以前は数カ月に1度の頻度でしたが、環境変化の激しさに対応して迅速な意思決定を行うため、2025年4月から月次で報告・議論するよう変更しました。
長谷川 月次で経営陣が向き合うことで、組織的な対応力も高まりそうですね。
加藤 現在の德永CEO体制においてもリスクマネジメントは主要テーマの1つです。毎月地道に議論を重ね、対応不足があれば即座にアクションを決定するサイクルを回すことで、経営層のリスクに対する意識は確実に高まっています。例えば、2025年度の米国関税への対応にあたり、タイムリーに影響分析を行った上で迅速に対応した結果、当初想定より影響額を抑えることができました。「組織としての対応力」の強化には、各事業部門(セクター/BU)とリージョンに「リスクマネジメントオフィサー(RMO)」を配置し、部門やリージョンの垣根を越えて先進事例を共有する「RMOコミュニティ」を構築しました。また、全社員を対象としたeラーニングを実施しています。約28万人の社員1人ひとりが、それぞれの持場でリスクを判断し、アクションやコミュニケーションができるよう、全社的なマインドセットの変革を図っています。
長谷川 テクノロジーの活用についても、重要な要素だと感じます。
加藤 特に「網羅性」と「即時性」を担保するためにテクノロジーは不可欠です。具体的には、トップリスクの選定において、AIを活用して社外の公開情報やトレンドを網羅的且つ即座に分析し、客観的な視点でリスクシナリオを策定しています。
長谷川 AIに客観的なフィルターを任せることで、忖度のないリスク識別ができるのは大きな利点ですね。コーポレート部門としては、事業部門が見えないリスク、見たくないリスクを可視化することも重要だと感じており、弊社でも、生成AIを活用したリスク識別や、事業に関連する法規制調査を支援する取り組みも始めています。今後、ERMをどのように進めていきたいとお考えですか。
加藤 急速な経営環境の変化から生じるエマージングリスクやビジネス機会を迅速且つ的確に把握し、企業価値最大化に向けた対応をするために、リスク認識のアジリティ(俊敏性)を高めたいと考えています。リスクマネジメント体制の規模拡大とレベルアップも今後の課題です。グループの全社員が自律的にリスクマネジメントを実践できるように、意識変革の裾野を広げていきたいですね。日立には、仕事や行動において基礎を大切にし、善悪の観点で常に正しい道を選ぶことを表す「基本と正道」という精神が脈々と引き継がれています。全社員がそれぞれの持ち場においてこの視点で判断し、行動することが大切です。
長谷川 環境が急変しても、1人ひとりが適切な行動を取れることが日立グループの強さだと感じました。本日はありがとうございました。
株式会社日立製作所
代表執行役 執行役専務 CFO兼CRMO
加藤 知巳(ともみ)氏
1986年の入社以来、多様な業種・リージョン・拠点での財務を経験。2024年度よりCFOに就任し、2025年度よりCRMOを兼務。財務・IR・投融資・リスクマネジメントをグループ横断的に管掌している。
(所属・役職は、2026年2月末時点のものです)
合同会社デロイト トーマツ
GRCカテゴリ リーダー
パートナー
長谷川 孝明
製造業の会計監査などを経て、テクノロジー関連を中心とする製造業向けに、グループガバナンス、リスクマネジメント、サステナビリティ、会計アドバイザリー業務に従事している。
合同会社デロイト トーマツ
GRC
シニアマネジャー
河野 久美子GRC領域の中でも特にグループガバナンス、リスクマネジメント領域を専門としており、幅広い業界に対してグループガバナンス高度化やERM体制構築に向けたアドバイザリー業務に従事している。
(所属・役職は、2026年6月末時点のものです)