かつて「ベトナムM&Aブーム」と呼ばれるほど注目を集めたベトナムは、コロナ禍以降、M&A市場の低迷が続いている。しかし、本当にベトナムは投資先としての魅力を失ってしまったのだろうか。
ロケットが二段階の点火によって飛行を続けるように、ベトナムも「生産拠点としてのベトナム」から、「成長する国内市場としてのベトナム」へと成長のエンジンを切り替え、新たな成長局面へ移行する可能性がある。
本稿では、ベトナムM&A市場が“第二段ロケット”に点火し、再び飛躍できるのか、その可能性を考察する。
2010年代後半、ベトナムでは多くのM&Aが実行され、東南アジアにおいても有力な投資先の一つとして注目を集めていた。しかし、2021年以降は新型コロナウイルスの影響に加え、不動産市場の混乱に伴う民間消費の停滞や、省庁再編による許認可の遅れなどが重なり、M&A件数は大幅に減少した。他の東南アジア諸国では回復の兆しが見られる中、ベトナムではM&A市場の回復に遅れが見られている。
日本企業による東南アジアでのM&A動向を見ても、全体的なトレンドに大きな変化はない。2019年には、米中貿易摩擦を背景として、中国に隣接するベトナムが「チャイナ・プラスワン」の有力な候補地として注目され、製造拠点の移転を進める企業が増加したことから、日系企業によるベトナム企業へのM&Aも活発化した。一方、その後は件数が減少傾向にあり、2025年には米国による追加関税措置の影響も重なった結果、M&A件数は直近10年間で最低水準にまで落ち込んでいる。
次に、ベトナムにおける業種別M&Aの変遷について見ていく。2010年代後半には、安価な労働力を背景として、労働集約型の製造業への投資や、海外向けのITオフショア開発関連の投資が多く見られた。一方で、近年ではその傾向に変化が見られる。新型コロナウイルス感染拡大の前後からは、輸出拠点としての魅力だけでなく、拡大するベトナム国内市場の成長性に着目した投資が増加している。
2022年以降のベトナムにおける業種別M&A動向を見ると、エネルギー・電力、工業、原材料・素材といったBtoB領域では、日系企業による案件数は相対的に少ない。一方、食品・生活雑貨分野では日系企業によるM&Aが活発であり、ハイテク、卸売・小売、ヘルスケア分野では、日系企業を含む海外企業の参入が目立つ。こうした傾向から、中間層の拡大を背景とした内需の成長を取り込めるBtoC領域が、近年のM&Aの主要な投資テーマとなっていることがうかがえる。
ベトナム国内市場の取り込みを目指すのであれば、既に現地で一定のプレゼンスや顧客基盤、販売ネットワークを確立している企業を買収することで、「時間を買う」ことが可能となる。そのため、ゼロから事業基盤を構築するよりも迅速に市場へアクセスできる手段として、M&Aは有効な成長戦略の一つと言える。
日本政策金融公庫が海外進出済みの日系企業を対象に実施したアンケート調査では、ベトナムは「今後3年程度の事業展開先として有望な国」として12年連続で1位となっている。また、有望国としてベトナムを選択した理由を見ると、従来は豊富な労働力が主な評価ポイントであったが、近年では現地市場の将来性が最も重視されるようになっており、ベトナムに対する投資の目的が「生産拠点」から「成長市場」へと変化していることがうかがえる。
また、こうした傾向はM&Aに限らず、FDI(海外直接投資)においても確認できる。ベトナム外国投資庁(FIA)のデータによれば、日本からの新規投資案件に係る許認可件数は、1988年以降の累計では製造業が最多であるものの、近年は小売・卸売業やコンサルティング業などの非製造業の比率が高まっている。これは、日本企業のベトナム進出の目的が、従来の生産拠点の構築から、成長するベトナム国内市場の取り込みへと変化しつつあることを示唆している。
具体例としてベトナムの小売・サービス市場を取り上げたい。ベトナム統計総局(GSO)のデータによると、ベトナムの小売・サービス市場は着実に拡大しており、2025年の総売上高は7,009兆ドン(約42兆円)を記録した。
販売チャネル別では、所得水準の向上や都市化の進展に伴う消費者の購買行動の変化を背景に、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの近代的小売(MT:Modern Trade)への移行が緩やかに進んでおり、特にコンビニエンスストアが高い成長率を示している。
一方で、依然として個人経営の小売店(いわゆるパパママショップ)を中心とした伝統的小売(TT:Traditional Trade)が大きな割合を占めている。したがって、ベトナム市場を攻略するためには、成長著しいMTへの対応だけでなく、依然として大きな存在感を有するTTをいかに取り込むかが重要な成功要因となる。
では、なぜベトナム国内市場を対象とした投資が注目されているのだろうか。その要因は、「国内市場の成長性」「政治的安定性」「投資環境の改善」の3つの観点から説明することができる。
① 国内市場の成長性
ベトナムの1人当たりGDPは近年急速に上昇しているものの、2025年時点では4,817米ドルと、日本の約7分の1の水準にとどまっている。ベトナム政府は2030年までに1人当たりGDPを8,500米ドルまで引き上げる目標を掲げており、経済成長に伴う中間層の拡大、世帯可処分所得の増加、ライフスタイルのモダン化などの構造的変化を背景に、今後も購買力の向上が期待される。
② 政治的安定性
2026年4月の国会において、トー・ラム書記長が国家主席を兼任することが決定された。権力集中への懸念はあるものの、少なくとも今後5年間は、経済成長を重視した実利的な政策運営が継続されることが期待される。
③ 投資環境の改善
政府は民間経済を国家経済の最も重要な成長エンジンと位置付け、2030年までに投資環境においてASEAN上位3カ国入りを目指している。また、2026年3月施行の改正投資法では、条件付き投資分野の削減や、投資手続きの簡素化に向けた制度整備が進められている。
日系企業の海外事業部や経営企画部、またベトナム現地法人の皆様とのディスカッションの中でも、東南アジアの中では特にベトナムにおけるM&Aの優先順位を高めているとの声を伺う機会が増えている。中東情勢の緊迫化やホルムズ海峡を巡る不透明感が高まっていた局面においても、ベトナムに対する投資意欲が大きく後退している印象はなかった。
足元のM&A件数は低水準にとどまっているものの、水面下では案件化に向けた検討や協議が着実に進んでいるように感じられる。今後、「生産拠点」としての魅力に加え、「成長市場」としての魅力が投資家から改めて評価されることで、ベトナムM&A市場が“第二段ロケット”に点火し、再び活性化していくことを期待したい。
合同会社デロイト トーマツ
ベトナム駐在員 井本 健太