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Googleの量子チップ「Willow」によるNMR解析の強化

”動作原理と部素材”から紐解く量子コンピュータ シリーズ第3回

昨今、商用化に向けて量子コンピュータの開発が加速しているが、ハードウェア構造や動作原理は非常に複雑であり、広くかつ十分に理解されているとは言えない。本連載では、来るべき量子コンピュータ本格活用時代に備え、動作原理や部素材の観点から量子コンピュータの基本的な仕組みを解説する。

前回ブログ「量子計算実行のためのコアデバイス ~Google最新チップ「Willow」に関する一考察」を25年1月に公開した後、Willowを適用したアプリケーション応用に関する新たな論文1を、Google、カリフォルニア大学バークレー校などが25年10月に発表した。

今回のブログでは、前回内容に関連するアプリケーション応用事例として、当ニュースを取り上げたい。

【量子コンピューティングによるNMR解析の強化】

当論文の対象ユースケースは、端的に言えば、従来の核磁気共鳴(Nuclear Magnetic Resonance : NMR)による解析を量子コンピューティングで強化する、というものだ。

核スピン(原子核の持つ微小な磁石)から発せられる電磁波信号を解析することで、試料内部の原子レベルの構造情報を知ること2ができるが、この仕組みを実用化したNMRは、有機化合物の低分子から高分子の構造解析、分子間相互作用の解析など、様々な解析に広く用いられている。

しかしNMRは、原理上、感度が低いことが大きな課題である。核スピンの磁気エネルギーは非常に小さく、室温では熱擾乱の影響でスピンの向きがほとんどバラバラになっており、発生する信号のほとんどが打ち消しあっている。3つまり、検知対象の信号自体が非常に弱い。

このような状況において、Googleの実証では、「NMRによる実際の解析結果と量子コンピューティングによる計算結果」を比較しつつ計算精度を高めていくことで、分子構造の解析において一定の成果を上げている。

具体的には下記の推定に関して、「(核磁気共鳴による)独立した分光測定」と同等の精度と正確性を達成した1、とのことだ。

  • トルエンのオルト-メタ水素間の平均距離
  • 3’,5’,-ジメチルビフェニルの平均二面角

【新たなアルゴリズム「Quantum Echoes」】

今回の実証で適用されているのが、「Quantum Echoes(量子エコー)」と名付けられた、新たに開発されたアルゴリズムだ。エコーとは、「こだま(山や谷で声や音が反響して聞こえてくる現象)」のことで、当アルゴリズムでは、量子状態への演算に対する「こだま(=返ってくる反応)」を利用している。

量子計算プロセスの概要3

下図「OTOC(out-of-time-ordered correlators) - NMRの概略プロトコル」の左側から順に処理が行われる。

  1. 量子システム(Willow チップ上の量子ビット)に信号を送り、1つの量子ビットに摂動を加える(左から二番目及び三番目のボックス)
  2. その時間発展を正確に逆方向に戻すこと(一番右のボックス)で、返ってくる「エコー(こだま)」を観測する。
    この処理は「可逆計算が可能な量子コンピューティング」の特徴が活かされている典型例である。なお「摂動」とは、「ずれ」のことで、近似解法で徐々に正解に近づいていくアプローチで使われる手段である
  3. この量子エコーアルゴリズムでは、量子の波が足し合って、より強力になる「構成的干渉(constructive interference)」という現象が生じ、これにより極めて高い感度の測定が可能になる

右から二番目のボックスに、蝶が描かれているが、これは「一種のバタフライ・エフェクト3(量子状態の微弱かつ不規則な変化)」を示している。解析が難しいこの効果を、Willowチップ上の処理によって把握し、この結果を基に化学構造を明らかにしている。

図:OTOC(out-of-time-ordered correlators) - NMRの概略プロトコル(1)

【今後の展開】

当実証で使用された量子ビット数は、わずか「15」ということを考えれば、今後のハードウェアの進化に伴い、更に複雑な解析が可能になることが期待される。
(参考:量子優位性を発揮できるベンチマーク水準として、数年前までは「100万物理量子ビット」と表現されることが多かったが、足元では、「数万論理量子ビット(物理量子ビットでは、数百万という水準)」に関する言及も増えている。)

量子コンピューティングは、従来のコンピューティングでは(現実的な時間内で)計算できない領域への貢献が期待されているが、その点は、量子コンピュータ単体での利用はもちろん、「従来技術の強化」においても大いに期待されるところである。またそれが、実用化初期における、有力な解の1つになってくるだろう。

今後も、量子コンピューティング実証成果や新規アルゴリズムのモニタリング・分析を継続し、デロイト トーマツ グループとして社会実装・産業応用への貢献に繋げていきたいと考えている。

(参考)
1 Quantum computation of molecular geometry via many-body nuclear spin echoes
2 室温で信号を700倍増大して創薬NMR手法を実現 - ResOU
3 Quantum Echoes を発表、量子コンピューティングの実用化に向けた大きな一歩

(引用)
(1) Quantum computation of molecular geometry via many-body nuclear spin echoes

執筆者

扇 孝一郎/Ogi Koichiro
合同会社デロイト トーマツ
コンサルティング / 量子技術研究リード

外資系大手IT企業等を経て現職。量子技術の調査・活用戦略の策定からスタートアップへの投資検討支援まで、広範なコンサルティングサービスを提供。国内量子産業の拡大や経済安全保障の観点から、量子サプライチェーンの構築にも取り組んでいる。

手塚 宙之/Tezuka Hiroyuki
合同会社デロイト トーマツ
コンサルティング / CGO office / スペシャリストリード(量子技術)

前職では半導体物性、半導体回路設計に10年に渡り従事。その後、本社R&Dセンターで量子技術の研究をリード。2020年より、慶應義塾大学量子コンピューティングセンターに共同研究員として参画。金融や化学、量子通信の実証など多岐にわたる共同研究に携わる。専門は量子機械学習、量子CAE。博士(工学)。