「あの人がいなくなったら、業務が回らない」。日本企業の多くの現場で、こうした不安が現実味を帯びている。生産年齢人口の減少、長時間労働の是正、部門間の知の断絶。これらが重なるなか、業務品質と生産性を支えてきた熟練者の暗黙知が、退職や異動とともに失われるリスクが高まっている。
生成AIが業務に浸透する時代に、合同会社デロイト トーマツ(以下、デロイト トーマツ)が取り組むのが、業務中の対話を起点に暗黙知を形式知化し、生成AIやグラフRAG(グラフ構造で整理したデータを検索拡張生成〈RAG〉に組み込み、AIが情報同士の関係性をたどって回答できるようにする技術)で活用可能な知識基盤へ変えていくアプローチだ。さらに、こうして整備された知識は、人の業務支援にとどまらず、将来的にはフィジカルAIやロボティクスを動かす判断基盤にもなり得る。
同社パートナー/デジタルカスタマー リーダーの津端 清と、Customer領域でAI・データ活用の実装を担うスペシャリストシニアの佐藤 恵介に、その狙いと、その先に見据える未来を聞いた。
ナレッジマネジメントというテーマ自体は新しくない。野中郁次郎らが体系化したSECIモデルⅰは、暗黙知と形式知の相互変換を通じて組織知が形成される過程を、1990年代から説明してきた。にもかかわらず、なぜ今、これが「経営課題」として再浮上しているのか。
津端は、その背景を労働環境の構造変化に置く。
「日本は生産年齢人口が確実に減っています。長時間労働の是正も進む。企業が利用できる労働投入量には、中長期的な制約が強まっている。一方で、顧客対応や業務運営に求められる水準は高まり、業務はむしろ複雑化しています」
津端 清/Kiyoshi Tsubata 合同会社デロイト トーマツ パートナー。デジタルカスタマー リーダー。製造業を中心に、DX戦略立案、経営管理変革、顧客体験変革、テクノロジー導入支援などに従事している。
これは個別社員レベルの問題ではなく、企業が顧客に提供する価値そのものの劣化につながる。津端の専門であるカスタマー領域から見れば、それは顧客生涯価値(LTV:Lifetime Value)の毀損であり、収益機会の逸失にほかならない。さらに深刻なのは、熟練者の退職や高齢化に伴う事業継続リスクだ。
「暗黙知をどう残すかは、もはや人事や育成の課題ではありません。事業継続性、収益性、IRや非財務情報の観点からも、明確に経営アジェンダになっています」と津端は語る。
ここで一つの楽観論が頭をもたげる。生成AIがこれほど急速に高度化しているのだから、待っていればAIが解決してくれるのではないか――。津端はこの見方を明確に否定する。
「LLMの性能向上は、市場全体で均質化に向かっています。みんなが同じ汎用AIを使えば、それは差別化要因ではなくなる。そこから先で勝負を分けるのは、各企業が固有に持っている『データ』をどれだけAIに載せられるか、その一点に尽きます」
汎用的に利用される生成AIや基盤モデルは、利用環境が整うほどコモディティ化しやすい。だからこそ、その上に組織固有の知識――ドキュメント、対話ログ、過去の判断、そして言語化されていない熟練者の経験――をどれだけ実装できるかが、AI時代の競争力を左右する。
佐藤は、現在の局面を次のように捉える。
「SECIモデルの世界観は、1990年代から存在していました。でも、当時はあくまで概念でした。実装しようとすれば、人が常に横について観察したり、インタビューしたりして暗黙知を形式知化する取り組みを続ける必要があり、コスト面で現実的ではありませんでした。それが今、ようやく仕組みとして実装できる時代に入ってきた、というのが本質です」
生成AIの発展により、長く概念にとどまっていた課題が、実装可能なテーマとして現実味を帯びてきた。
ではどうやって暗黙知を取り出すのか。津端は従来手法の限界を率直に指摘する。
「形式的なヒアリングだけでは、熟練者の判断を十分に引き出すことはできません。フィールドエンジニアの方は、現場で『あ、ここを確認しないと』と瞬時に判断している。それを後から『あの時どう考えていましたか』と聞いても、なかなか思い出せない。仮に思い出せたとしても、本人の言葉で説明するのが難しいことがあります」
熟練者の判断は、業務の流れの中で連鎖的に立ち上がる。それを業務から切り離した瞬間に、判断のコンテクストは失われる。だからこそ、知識基盤づくりでは、対話そのものを業務ワークフローに埋め込む。
「実際に作業しているその瞬間に、AIと対話してもらう。発話をAIが自然に拾って構造化していく。これが暗黙知を引き出すうえで、有力な方法だと考えています」と津端は説明する。
一過性のインタビューはコストが大きく、思い出すこと自体も難しく、善意に依存した収集は継続しにくい。日々の業務に対話を組み込むことで、データは「集めるもの」から「自然に流れ込むもの」へと変わる。
技術面では、生成AIとグラフデータベース(グラフDB)の組み合わせが核となる。一般的なRAGでは、ベクトル検索を用いて関連文書を取得する設計が多い。これに対し、グラフDBを併用し、情報同士の関係性をたどれる形で知識を整理する。
「ベクトル検索は機械にとっては効率的ですが、人間には何がどう関連づいているのか直感的にわかりにくい。一方でグラフDBは、ノードのつながりが目で見てわかる。『発想の連鎖』をそのまま構造として表現できるんです」
佐藤 恵介/Keisuke Sato 合同会社デロイト トーマツ Customer スペシャリストシニア。AI・データ活用、RAG、グラフDB、LLMを活用した業務実装を担当している。
加えてグラフ構造は誤った関係づけを人間が修正しやすい。説明可能性と監査性を高めながら、ヒューマン・イン・ザ・ループ(AIの判断プロセスに人間が要所で関わり、品質を担保する設計)で知識を精緻化していくサイクルを組みやすい。
ただ、技術はそれだけで動かない。こうした知識基盤を業務に根付かせるには、ビジネスコンサルタント、データサイエンティスト、データエンジニアの三者が一体となって進める必要がある。コンサルタントが経営目標とKPIの定義、BPRやチェンジマネジメントを担い、データサイエンティストがRAG、グラフ、LLMの設計と精度監視、データエンジニアがデータ利活用と運用基盤・セキュリティを担当する。津端は、この体制が単なる役割分担を超えた意味を持つと強調する。
「グラフRAGなどのテクノロジーは、いずれ多くのベンダーが実装可能になる領域です。でも、データをどう整理するか、どんな業務に組み込むか、組織の壁をどう越えるかをわかっている人がいるかどうかで、出てくるアウトプットの質はまったく違ってきます」
中核ユースケースとしてデロイト トーマツが挙げるのが、B2B営業とフィールドサービスだ。B2B営業では、利用目的の明確化、本人への説明、適切な権限管理を前提に、商談記録、コラボレーションツールの履歴、メール等から、トップ営業の「問いかけ」と「需要発見」のパターンを抽出し、標準化していく。期待されるKPIは、勝率や粗利の改善、新人の立ち上がり期間の短縮などだ。
フィールドサービスでは、機器の異常事象から原因推定や確認手順をAIがガイドし、一次解決率を高める。MTTR(Mean Time To Repair:平均修復時間)の短縮や、教育・研修期間の短縮にも直接的な効果が見込まれる。
「現場で起きたことをその場でAIが拾い、組織のナレッジに還元する。新人は熟練者のサポートを受けられるし、熟練者はさらに踏み込んだ判断ができるようになる」と津端は語る。
社内コラボレーション領域でも、「誰に相談すればよいか」がわからず立ち止まる場面で、AIが橋渡し役になり得る。
こうした業務データを活用するうえでは、個人情報・機密情報のマスキング、アクセス制御、監査ログの整備なども欠かせない。デロイト トーマツは、こうしたガバナンス設計をプロジェクト初期から組み込むことを重視している。
ここで一つ、現場での反応に関わる懸念が浮かぶ。「ベテランは自分のノウハウを共有したがらないのではないか」――。津端はこれに二段構えで答える。
「ベテラン層は組織貢献として、また引退後を見据えて協力的になる方が多い。一方、業務の中核を担う中堅層には、評価制度やインセンティブの設計が必要です。提供した情報を使うことで自分の業務効率も上がるとなれば、抵抗感は徐々に下がります」
佐藤はもう一段踏み込む。
「自分がやってきたことをAIが取って代わるのを、私はポジティブに見ています。その分、本当にやりたいことに時間を使えるからです」
ノウハウを取られるのではない。定型的な部分をAIに任せ、自分はより付加価値の高い仕事にシフトする――そのストーリーが組織で共有されたとき、データ収集への協力は、強制ではなく文化として根づいていく。津端はこう付け加える。
「特定個人のクローンを作りたいわけではないのです。組織知、集合知を形成していくのが目的です」
デロイト トーマツが現場知を組織の知識基盤へ変えていくうえで明確に打ち出しているのが、「PoCで終わらせない」という原則である。
「以前は、社内のデータを全部入れて何か出させてみるPoC(概念実証)も多かった。でも、目的が明確でないPoCは、何が出てきても経営の意思決定にはつながらない。今は、PoCを始める前に、本番活用の設計、ガバナンス、KPIの定義まで合意しておくのが必須です」と津端は強調する。
導入は段階的に設計される。フェーズ1では、生成AIとグラフRAGの理解、対象業務の選定、データエンジニアリング基盤の整備から始める。フェーズ2では、検索・回答精度や業務適合性を高める。フェーズ3では、関係部門を広げて既存業務プロセスと統合する。フェーズ4では、BPRやチェンジマネジメントを伴う業務変革として定着させていく。ガバナンス面では、データエンジニアリングチームを仲介役に置き、データの抽出・承認・メタ情報のドキュメント化までを一貫して支援する。加えて重要なのが、「やらないこと」の明確化だ。新しい仕組みが既存業務に積み上がるだけでは、現場の負担は増える一方になる。BPRを伴わないAI導入は、持続しない。AIを前提に業務を再設計し、暗黙知やノウハウの活用を業務プロセスに組み込むことが不可欠である――これがデロイト トーマツの一貫したメッセージである。
ここまでの議論は、人の業務を支える知識基盤づくりに関するものだ。だがインタビューの後半、二人が異口同音に語ったのは、その知識がフィジカルAIやロボティクスの判断にも活用される未来だった。佐藤は将来像をこう語る。
「最終的に、蓄積されたナレッジ自体がロボティクスにも活用されると考えています」
津端も次のように続ける。
「製造業のお客様は、究極的には『故障しないプロダクト』を目指しています。自律的にメンテナンスし、自己修復していく機械です。そこに必要なのは、フィジカルな機構そのものよりも、判断のためのナレッジです。何が異常の予兆なのか、どんな状態で何を確認すべきなのか――それは現場の熟練者が経験のなかで蓄えてきたものと、重なる部分が大きい」
フィジカルAIやロボティクスの実装で難しいのは、機械を動かす制御だけではない。物理世界で何を正常・異常・予兆と判断するか、その判断基準をどう設計するかが問われる。だからこそ、暗黙知を日々の業務から継続的に取り出し、構造化しておくことは、将来の保守・点検・運用の自律化に向けた先行投資になる。
「暗黙知をデータ化し、継続的に蓄積しておけば、それを使う主体は人に限られません。市場がフィジカルAIやロボティクスに本格的に注目してから『じゃあ今からナレッジを集めよう』では遅い。その頃には、先行していた企業が競争優位を築いている可能性があります」
佐藤も付け加える。
「機械をきちんと動かそうとすれば、整備されたデータがどうしても必要になります。テクノロジーの進歩は加速しますが、底にある『データ』だけは、自社で時間をかけて積み上げるしかない。だからこそ、今から始める意味があるんです」
最後に、津端は日本企業が持つ現場知の可能性を指摘した。
「日本企業の現場には、長年の経験や関係性のなかで共有されてきた判断知が多く残っています。これを言語化し、構造化できれば、短期には模倣しにくい競争資産になり得ます」
生産年齢人口の減少も、事業継続の困難も、確かに重い課題だ。しかしその裏側には、長年の業務経験を通じて蓄積されてきた厚みのある現場知がある。それを引き出し、構造化し、AIに載せ、最終的には機械側にまで展開していく。
汎用AIの性能が均質化していくほど、競争力の差は、各社固有の知識をどれだけ蓄積し、活用可能な形に整えてきたかに移っていく。日本企業の現場に眠る暗黙知を、対話を通じて形式知化し、組織知として再利用し、将来的にはフィジカルAIやロボティクスにも接続していく。その取り組みは、単なるナレッジマネジメントではなく、次の時代の経営資産をつくるための投資である。
ⅰ「知識創造企業」, 野中郁次郎 他, 東洋経済新報社, 1996