急速に変化する世界情勢やAI(人工知能)の進化等を背景に、リスクマネジメントの重要性はますます高まっています。こうした状況を踏まえ、デロイト トーマツ リスクアドバイザリー合同会社は2025年5月27日、「リスクマネジメント最前線―不確実への挑戦とテクノロジー活用」をテーマに、オンラインセミナーを開催しました(協賛:一般社団法人リスクマネジメント・プラットフォーム)。
460名が参加した本セミナーは、リスクマネジメントを価値創出の視点から捉え直し、企業が「リスクを恐れずにチャレンジできる環境」を構築するための実践的な知見の共有を目的としたものです。当日はAI活用やデジタルツール導入の実践事例に関するパネルディスカッション2本と、サッカー元日本代表・内田篤人氏による特別講演を通じて、技術導入から組織変革まで幅広い実践知を紹介しました。
最初のパネルディスカッションには、楽天グループ株式会社の執行役員でAIサービス統括部ディレクター・グローバルCDO室オフィスマネージャーの大越拓氏、株式会社メルカリで執行役員CLO(Chief Legal Officer:最高法務責任者)を務める菊池知彦氏、日本アイ・ビー・エム株式会社テクノロジー事業本部の小山政宣氏が登壇。株式会社リクルートでリスクマネジメント室 ERMユニット Vice Presidentを務める橘明日香氏をモデレーターに迎え、「AI活用で変わるビジネス、変わるリスク――人工知能が企業にもたらす真の価値とは」をテーマに、AI運用の現状や直面している課題、将来の展望について議論を交わしました。
冒頭、各登壇者は自社のAI活用状況を紹介しました。
楽天では生成AIの登場以前からAI導入を進めており、2023年後半からは社内業務の効率化を目的に生成AIを本格的に活用しています。さらに2024年からは蓄積された技術やノウハウを一般向けサービスにも展開していると言います。
楽天グループ株式会社 執行役員 AIサービス統括部ディレクター グローバルCDO室オフィスマネージャー 大越 拓 氏
一方、メルカリではお客さまの出品支援、不正利用検知といった場面での活用に加え、新規事業のリスクアセスメントでもAIを導入。各部門からの意見収集や経営層への報告に生成AIツールを活用し、リスクマネジメント業務の効率化を図っています。日本アイ・ビー・エムの小山氏は、非財務リスクを一元管理する自社ソリューションを紹介し、AIリスク管理を支援する立場からの知見を披露しました。
楽天もメルカリも、AI活用の効果が明確に表れていると言います。大越氏は「生成AIの導入により、2024年には営業利益ベースで約100億円のコスト削減を実現しました。特にソフトウェア開発分野においては、大幅に開発工期を短縮しているチームもあります」と、具体的な効果を語ります。菊池氏もリスクアセスメントの精度と効率が大きく向上したことを明らかにし、「BCP(事業継続計画)の訓練シナリオで、過去の訓練データや外部情報を基にAIがたたき台を作成し、主観に頼らない客観性と網羅性のある計画が可能になりました」と説明しました。
株式会社メルカリ 執行役員 CLO 菊池 知彦 氏
一方、先進的にAIを活用する企業だからこそ直面する課題もあります。大越氏は「社内利用では問題がなかったAIチャット機能も、一般公開後には悪用のリスクが顕在化しました。ハッキングを試みるユーザーへの対応が急務となり、現在は開発プロセスにリスクチェックを組み込む体制を整備しています」と、その難しさを指摘します。
菊池氏も「ハルシネーション(誤情報生成)や知的財産権、非構造化された法務データの扱い、導入時の煩雑な社内審査といった課題が残っています」とし、今後はスピードとガバナンスの両立、さらに社内データとプロセスの整備が重要であるとの見解を示しました。
議論を通じて浮かび上がったのは、AI活用における『慎重さ』と『積極性』のバランスの重要性であるという点です。小山氏は「AIリスクやガバナンスの重要性はこの1年で急速に高まりました。今後はAIリスクも、オペレーショナルリスクやコンプライアンスリスクと同様の非財務リスクの一部として扱われるようになります。定性的な評価だけでは限界があり、リスク量の定量化とエビデンスに基づく総合的な評価が必要です」と指摘しました。
日本アイ・ビー・エム株式会社 テクノロジー事業本部 データ・プラットフォーム事業部 製品統括営業部 / AI・GRC製品エキスパート 小山 政宣 氏
今後の展望については、3名とも「AIを使わないことが最大のリスク」であると口を揃えます。菊池氏は「AIを活用することで、人間だけでは限界があったリスク管理の精度と範囲が格段に向上し、これまで実現できなかったレベルの高品質なリスクマネジメントが可能になります」と、これまでの経験を振り返りながらその効果を訴求します。
一方、小山氏はPoC(概念実証)段階で止まってしまう企業が多い現状に触れ、「信頼性ある運用体制や基盤が整っていないことが、生成AI活用の次の一歩を阻んでいます」と指摘。安心してAIを展開できる環境の整備こそが、今後の企業成長のカギを握ると語りました。
最後にモデレーターの橘氏は「AIは単なる業務効率化の手段ではありません。リスクマネジメントの質を変え、新たなビジネス価値の創出を支援するツールであるとの認識で活用していくことが大切」と総括し、セッションを締めくくりました。
株式会社リクルート リスクマネジメント室 ERMユニット Vice President 橘 明日香 氏(モデレーター)
続く特別講演では、サッカー元日本代表の内田篤人氏が登壇し、「リスクと向き合い、それを乗り越えるためのアプローチ」について語りました。
「サッカーはミスの起こるスポーツです。細かい判断ミス等を含めると1試合で2000~3000個のミスが必ずある。だからこそリスクを排除するのではなく、適切にマネジメントする。それができるからこそ攻撃に出られるんです」。
冒頭、内田氏は「リスクは避けるのではなく、乗り越える前提で向き合うべきだ」という自身の考え方を紹介しました。内田氏が担っていたサイドバックというポジションは、守備の最終ラインに位置しながら攻撃にも関与する、「守り」と「攻め」の境界に立つ役割です。そこで求められる判断力や連携について、次のように語りました。
「攻撃の選手が守備をサボったら、尻拭いするのが私(のポジション)です。仲間が前に出たら、自分は一歩引く。そんなシンプルな動きが、チーム全体のバランスを保ちます。また、相手1人に対して2人で対応する『+1』の原則も重要です。2対2では、誰かがミスをすれば一気にピンチ。でも、1人多く守ればリカバリーが利きます。余裕があるからこそ、守った後で攻撃に転じられる。それが守りを固めることで、攻める余力が生まれるという『攻めのリスクマネジメント』の本質だと思います」。
またトップアスリートにとって欠かせない要素として、内田氏はメンタルコントロールの重要性にも言及しました。メンタルは「強い」「弱い」といった単純なものではなく、「感情の振れ幅を小さく保つ」ことが安定したパフォーマンスにつながると語ります。
「うれしい時も悔しい時も、感情の振れ幅を小さくする。勝っても浮かれ過ぎず、負けても落ち込み過ぎない。そうすることで、常に安定したプレーができるようになります。ドイツのスタジアムには8万人もの観客が入ります。当然、緊張もしますし、ミスをすれば落ち込みます。その感情の幅をそのまま受け入れてマネジメントしていました」。
さらに、スポーツにおけるデータ活用についても触れました。現代のスポーツでは多くの場面でデータが活用されています。しかし、内田氏は「最終的に信じるべきは自分の感覚」だと強調します。
「もちろんデータは使います。でも、試合中に『(データ的に)この状況は走るべきか』なんて考えている暇はありません。考えなくても体が反応するように、日々の練習で感覚を磨き、体に染み込ませておくことが重要です」。
サッカー元日本代表 内田 篤人 氏
講演の締めくくりで、内田氏はこう語りかけました。
「リスクを恐れて動かないのではなく、リスクを管理するからこそ、大胆に挑戦できる。守りを固めた上でこそ、前に踏み出せます。リスクテイクするタイミングを見誤らないことが重要です」。
参加者からは「内田氏の話は、ビジネスの現場にも共通する考え方。データやツールは手段として活用しながらも、最後に問われるのは人間の判断力とそれを実践する行動力。企業に求められているのは『リスクを見極めて使いこなす力』であると感じました」といった声が聞かれました。
リスクマネジメントの現場では、デジタルツール活用の動きが加速しています。では、どのような視点でツールを選択・活用しているのでしょうか。
「デジタルでリスクマネジメントはさらに進化する――ツール活用で実現するガバナンスの新たなカタチ」と題したパネルディスカッションには、サントリーホールディングス株式会社グループガバナンス本部リスクマネジメント推進部長の萬造寺剛志氏、LINEヤフー株式会社でガバナンスグループ リスク管理・コンプライアンス統括本部長を務める張大勲氏、ServiceNow Japan合同会社ソリューション営業統括本部 テクノロジーワークフロー営業本部の磯野淳氏が登壇。デロイト トーマツ リスクアドバイザリー合同会社でマネージングディレクターを務める北畑瑛奈がモデレーターを務める中、3社がそれぞれの実践的な取り組みを紹介しました。
萬造寺氏は、サントリーの「やってみなはれ」の企業文化を紹介しつつ、「この文化はリスクマネジメントの観点からは常に数多のリスクと隣り合わせと捉えることができます。しかし、挑戦を止めるのではなく支えるのがリスクマネジメント推進部の役割です」と語ります。同社は現在、品質や調達リスクに加え、サイバーやESG等、23のトップリスクをグローバルで管理。具体的にはリスク評価のためにクラウドツールを導入し、属人化や手作業の負荷を軽減していると言います。
サントリーホールディングス株式会社 グループガバナンス本部 リスクマネジメント推進部長 萬造寺 剛志 氏
一方、LINEヤフーの張氏は、「検索、SNS、金融等、多岐にわたるサービスを展開する中で、規制やサイバー、プライバシー等、扱うリスクも複雑化しています」と、リスク管理の難しさを指摘しました。
同社の特徴は、リスク領域ごとに専門の責任者を配置し、現場主導の対応体制を整えている点です。リスク評価の自動化、インシデント対応システム、AIによる情報抽出等、ツールの活用を拡大し、セキュリティ、個人情報、リスク管理等、それぞれの専門分野に責任を持つ担当者を明確化し、日常的な訓練と有事の即応を可能にしていると言います。
LINEヤフー株式会社 ガバナンスグループ リスク管理・コンプライアンス統括本部長 張 大勲 氏
ツール提供者の立場から登壇したServiceNowの磯野氏は、「リスクマネジメントのPDCAを効率化するには、社内システムとのデータ統合が鍵になります」と指摘。同社では生成AIやAIエージェントの活用で、意思決定支援を強化していると紹介しました。
3社が共通して強調したのは、ツール導入自体が目的ではないという点。萬造寺氏は「単なるIT導入を超えて、行動変容を生み出す仕組みへと進化させることが重要です」と説明します。
ServiceNow Japan合同会社 ソリューション営業統括本部 テクノロジーワークフロー営業本部 磯野 淳 氏
では、ツールを活用したリスクマネジメントは、組織にどのような変化をもたらすのでしょうか。
張氏は、さまざまな事象に「リスク」とラベルを貼ると抽象的な議論になりがちであるとし、「ガバナンス強化という『守り』から脱却し、経営陣の本質的課題に焦点を当てた議論を導くことが重要です」と指摘します。萬造寺氏も「『戦略に貢献』という大げさな表現ではなく、経営者の日々の判断をサポートする旗振り役として、適切なリスクテイクを促進したいです」と共感を示します。
AI技術の進化により、リスクマネジメントにおけるツール活用の可能性も広がりつつあります。中でも注目されるのが、シナリオプランニングやインシデント予測等にAIを組み合わせるアプローチです。磯野氏は「リスク状況を経営層に正しく伝えるには、可視化された情報が不可欠です」と語り、リアルタイムデータの整備とダッシュボードによる状況の見える化が、経営判断の迅速化と的確化につながると説明しました。
最後にモデレーターの北畑氏が「ツール導入が目的ではなく、リスクの“予兆・予見・未然防止”といった本質的価値を、どこまで高められるかが問われています」と締めくくり、パネルディスカッションを終えました。
デロイト トーマツ リスクアドバイザリー合同会社 マネージングディレクター北畑 瑛奈(モデレーター)
セミナー閉会時には、このたび新設された一般社団法人リスクマネジメント・プラットフォーム理事の羽村氏が協賛者挨拶で登壇。「人口減少やAIの進化、地政学リスクの高まり等、日本社会の不確実性が増大する中、企業は真正面からこれらに向き合わなければなりません。自由に集い、活発な意見交換を行い、知見や経験を共有する『場』を当法人が提供し、日本社会全体でのリスクマネジメント手法や専門性の向上を目指します」と設立の趣旨を説明。先行きが不透明な情勢だからこそ、リスクマネジメントに携わる者同士が結束し、課題を乗り越えていく――。参加者と新たな決意を共有し、セミナーは閉会しました。